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【ゴールデンカムイ】杉元のモデルは実在した!不死身の男と言われたわけは?

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ゴールデンカムイ

ゴールデンカムイの物語の中で何度も命を落とすかというピンチを切り抜け復活を繰り返す杉元ですが、そんなサイボーグのような存在のモデルになる人物が歴史上に実在しました。

今回は、杉元のモデルといわれる船坂弘について、その人物像や戦地での興味深いエピソードをご紹介します。

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【ゴールデンカムイ】杉元のモデルは実在した!舩坂弘と言われる訳は?

ゴールデンカムイの物語の主人公杉元は、人間なのかと疑いたくなるほどの強靭な肉体の持ち主です。

しかしこれは漫画の世界だけのお話ではありませんでした。

そこでここではゴールデンカムイの杉元とモデルとなった人物の類似点を紹介していきます。

不死身の杉元と言われたニックネームについて

不死身の杉元と同じく、不死身と呼ばれた人物が過去に実在していました。

その人物とは、「不死身の分隊長」と呼ばれた船坂弘軍曹です。

キャラクター名 モデルとなった人物
杉元佐一 船橋弘

彼も幾度となく戦地に出向き、無双した記録が残っています。

船坂弘軍曹は、生死を彷徨っては生き残ることから不死身の分隊長で知られる様になりました。

船坂弘軍曹の体の不思議を現代の医学で解明したいものです。

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驚異的な治癒能力について

船坂弘軍曹は負った傷の治癒速度も、杉元と同じく驚異的なスピードでした。

物語の中では、杉元の傷の回復力について言及されています。

杉元のもとに駆けつけた軍医が治療は無理だと諦めるような傷を負っていても、彼は翌日となればその傷が治っていました。

この点も船坂弘軍曹と共通しているのです。

船坂弘軍曹にはパラオでの戦地で大ダメージを受けた記録が残っています。

彼は、23歳の時にアメリカ軍との激闘に挑み、1人で200人ものアメリカ兵を倒しています。

しかし、その後太ももに爆撃を受け大量出血を起こし、駆けつけた軍医も治療を施せませんでした。

しかし不死身の分隊長は諦めません。

近くに落ちていた旗で止血を施し、一晩中這いながら陣地へと戻ります。

その後一晩休むと、翌日には歩ける程に回復し戦闘に前線で参加していたそうです。

信じられない話ですが、これが作り話ではないのです。

船坂弘軍曹は自ら小さい頃から傷の治りが早かったと言い残しています。

銃弾を受けたエピソード

また、杉元は作品の冒頭から首を撃たれるシーンがありますが、まるでダメージを負っていません。

流石に船坂弘軍曹もそこまでピンピンはしていませんが、首が被弾したものの生き残ったエピソードがあります。

太平洋戦争も終わりに差し掛かった頃、日本軍はかなり窮地に立たされていました。

船坂弘軍曹もさすがにもう自決を決め、自らに手榴弾を巻きつけアメリカ兵のテント目掛けて走り込もうとします。

その手榴弾の数は6つにも及びます。

船坂弘軍曹の強い自決の想いと、アメリカ兵を1人でも多く巻き込もうという決意が感じられます。

その際の船坂弘軍曹は既に瀕死の状態であった事から、アメリカ兵は彼が手榴弾を爆破させる前にその存在に気がつきます。

慌てて彼を狙撃し、船坂弘軍曹は首に被弾してしまいます。

その後、動かなくなったので遺体安置所で保管していたところ、なんと3日後に船坂弘軍曹は起き上がったのです。

もうアメリカ兵の目にはゾンビのように映った事でしょう。

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【ゴールデンカムイ】杉元のモデルとなった舩坂弘とはどんな人物?

ここではゴールデンカムイの杉元のモデルとなった船坂弘さんとはどんな人物だったのかを紹介していきます。

戦争に行く前はどんな人だった?

銃剣術に優れた才能を発揮していた人物で、その才能は剣道にも活かされていました。

周囲の上官達も認める腕っ節だったようです。

小銃の扱いも一流だったようで、部隊の中でも度々表彰される場面がありました。

射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に贈られたのは船坂弘軍曹ただひとりでした。

戦争での逸話は?

船坂弘軍曹が最も戦果として結果を残した戦いが、第二次世界大戦パラオアンガウル島での激戦です。

中隊がどんどん壊滅する中、彼は擲弾筒と臼砲を打ち続け200人ものアメリカ兵を倒します。

さすがに長時間撃ち放たれる砲身は、真っ赤に染まっていたそうです。

この事はゴールデンカムイのエピソードでも描かれています。

最終的に船坂弘軍曹はアメリカの捕虜として終戦を迎えるまで収容所を何度か移されます。

捕虜時代にも血気盛んなエピソードはありますが、船坂弘軍曹に寄り添うアメリカ軍クレンショー伍長との出会いで彼の生き方は変わります。

1946年には日本帰国を果たし、栃木県の実家に戻ります。

実家にはパラオアンガウル島で戦死したとの知らせが入っていたので、そこには船坂弘軍曹の墓が既に用意されていました。

彼はその墓標を自ら地面から引き抜いたという面白いエピソードもあります。

戦後はどうなった?

その後、日本の発展を願い渋谷駅前に書店を構えます。

剣道にも打ち込み教士六段を習得します。

戦争体験を書籍化し、印税は激戦が繰り広げられた島々に慰霊碑を建てる事に使われました。

2006年85歳でその生涯を閉じるまで、戦没者の慰霊と、パラオ諸島への援助に専念されたのでした。

  船坂弘さんの自伝

英霊の絶叫 ペリリュー島 玉砕戦 聖書と刀

船坂弘さんが自身の体験談を赤裸々に描かれた本です。

どの作品を読んでも読みごたえのある作品となっています。

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まとめ:【ゴールデンカムイ】杉元のモデルは実在した!不死身の男と言われたわけは?

杉元のモデルと言われている船坂弘軍曹は、凄まじい体と精神力の持ち主でした。

都市伝説では宇宙人と人間のハイブリッド種ヒューメイリアンなどが囁かれています。

船坂弘軍曹は、あまりにも不死身なので、もしかするとそういった存在だったのかもしれません。

余生は日本で平穏に過ごされた事が唯一の救いだったでしょう。

杉元にも、老後は平和にのんびりと過ごして貰いたいです。

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